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コラム
夢は映画づくり―青春のひとこま

高校中ごろまでの「少年の夢」は映画だった。役者はルックスが無理なので、映画づくりか批評家にーと、かなり本気で考えていた。図書室にそろえてもらっていた映画関係雑誌(「スクリーン」「映画の友」「近代映画」「キネマ旬報」)を精読し、直接見れない映画でも、監督、俳優、筋書き、さらに音楽まで覚え込んでいた。「鉄道員」(ピエトロ・ジルミ監督)「禁じられた遊び」(ルネ・クレマン)「エデンの東」(エリア・カザン)「道」(フェデリコ・フェリー二)「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン)「第3の男」((キャロル・リ―ド)等々、レパートリーも、田舎の高校生にしては結構幅広かった。

 左眼失明の危険と告げられた目の患いのため、映画の夢は1回「断念」。それでもあきらめきれず2年ぐらいのブランクをへてまた映画館へ。「ウエストサイドストーリー」を、午前10時から夜7時ごろまでぶっ続けで見て、今度は右の目を患う。これで完全に「映画への夢」を断念した。

 映画評論家の故淀川長治さんが、「わが映画人生に悔いなし」のなかで、「映画はわたしの人間教室」「映画は人間教室。娯楽じゃない」「特に政治家は映画を見ないといけない」と書いている。たしかに、映画によってこれまで、いろんな価値あることを学んできた。

 忙しい。それでも、淀川さんの言葉に励まされて、映画をみる時間をなんとかしよう。さしあたり「武士の一分」、出来れば若い世代を理解するうえで、初作もなかなか良かった「続NANA」あたりも。

【06.12.10】
セメント樽の中の手紙」
      ―青春のひとこま

高校時代。「人間の条件」(五味川純平)を読み終えてからの私は、「戦争」とか「差別」について、「なぜ」「どうしたら」と、考える高校生になっていた。だから自然とプロレタリア文学にも興味を持つようになっていた。

そんな私が、読書感想文でとりあげたのが、葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」だった。セメント工の主人公が、セメント樽のなかでみつけた小箱の中の女工の手紙。恋人が仕事中にミキサーに巻き込まれ、粉々になり、セメントになってしまった。

「恋人がセメントとして何に使われたのか」「劇場の廊下になったり、大きな邸の壁になるのは忍びない」「あなたが労働者だったらそんなところに使わないで」と記されていた。手紙を読む男にも「へべれけに酔っ払いてえな」と怒鳴らずにはおれないきつい労働、細君のおなかのなかには七人目の子どもという現実が。
 私はこの短編小説に衝撃を受け、読書感想文を書いた。高校を卒業してだいぶ経ってから、当時担任だった先生から、「職員室でちょっとした議論になった」と聞かされた。
 大学受験と病気などで、私のこのころの疑問や関心は中断され、私が、本物の労働運動や共産党に出会い、自分なりの結論に達したのは、大学にはいってからだった。
【06.11.22】
青春のひとコマ〜フォークソング

フォークソング全盛時代でした。ギターに挑戦したがモノになりませんでした。高石友也、岡林信康、(西岡たかしと)「五つの赤い風船」、高田渡などに代表される「関西フォーク」といわれる、帆船や人権などのメッセージ性の強いフォークソングがメインでした。

 私は、「関西フォーク」の中では、「五つの赤い風船」が好きでした。反戦・平和のメッセージ、優しい旋律、ボーカル(青木まりこ)などが、若い私の感性にあいました。「遠い世界に」「もしもボクの背中に羽がはえてたら」「血まみれの鳩」「まぼろしの翼とともに」などをよく口ずさんだもので、今でもCDを聴いたりしています。

 彼らの反戦メッセージが、今の時代にも活きています。というより、当時よりいっそう、説得力、切実さをもっているようです。
―まるで洪水のよう(作詞・作曲 西岡たかとし)―
 わたしたちはいま、思い起こさなければ。わたしたちはいま、平和をきずかなくては。わたしたちはいま、兄弟を守らねば。わたしたちはいま、戦争を忘れてはならない。まるで洪水のように、なにもかもが、ひきずりこまれていく。

憲法九条、教育基本法の改悪、凶暴罪といった歴史の逆流が、「まるで洪水のよう」に、迫ってくる昨今。「戦争を忘れない」ことは、原点であり、逆流を押し返す大河のような流れをつくるキーワードです。

【06.11.12】

青春のひとコマ〜学生セツルメント
 
一九四九年、キティ台風による利根川決壊での被害に対して、医師、看護士、学生らが救済活動、その中で東大セツルメント誕生。その後、「学生セツルメント」運動は全国に広がりました。医療、保育、子ども会などによる取り組み、今で言う「ボランティア活動」に通ずるものがありました。

 私の学生時代、熊本市内にはまだ、戦争と熊本大水害の傷跡が残る地域がありました。 私は、「子ども会」を主な活動とする「熊本学生セツルメント」の文化部メンバーとして活動しました。兵舎跡の活動後、水害被害のバラック地区での「子ども会活動」を数人で始めました。夕方、お別れの前に「夕焼けこやけ」をみんなで歌いました。 「カラスと一緒に帰りましょ」という歌詞と当時の学生は黒の学生服が普通でしたので、それらが重なって、私のあだ名は「カラス」と子どもたちにつけられました。

 「現場主義」で、問題のあることろに飛び込んでいく現在の議員活動の原点は、白川端の「子ども会活動」にあるのかなあ―と思ったりします。
 それにしても、「ボランティア活動」を学校の評価の対象にするのには、ボランティア活動、学校教育のありかたにてらしても大いに疑問です

【06.10.22】 
 おふくろの味

「おふくろの味」―といっても、私の母はすでに亡くなっているので「母親の味」ではなく、細工町の党(共産党県委員会)の事務所の近くの小さな食堂の「昼めしの味」。

 季節の素材を使い、季節にあわせてこしらえるおかみさんの料理は「絶妙」。これからさき寒くなる。「寒っ」と駆け込むと、「おでん」が出たり「鍋焼き」が出たりする。

 コンビニの「和風幕の内弁当」の19の食材うち14が外国産。これらの食材の東京までの輸送距離を合計すると16万キロにもなるそうだ(「コンビニ弁当16万キロ」)。実に地球の4周分にあたる。
日本の食糧自給率は8年連続で40%。何でもかんでも輸入。本来の「おふくろの味」もなくなってしまう。

【06.10.8】 
 電波ジャック

自民党総裁選―一向に盛り上がりませんでした。NHKをはじめテレビが、「電波ジャック」されたように連日過熱報道をしたにもかかわらず。それにしても権力を監視し、問題点を視聴者に伝えるべきジャーナリズムー特にキー局の権力追従姿勢は目にあまる。

十五年戦争でマスコミが果たした責任、罪を忘れたかーと言いたい。念のために、いくつか紹介します。 *「満州事変」―「東京日日」(後の「毎日」)・「支那軍満鉄線を爆破、わが守備隊を襲撃す」(日本軍部の謀略どおりに報道) *日独伊3国同盟調印―「朝日」・「ヒットラー総統万歳」「イタリア皇帝陛下万歳、ムッソリーニ首相万歳」「大日本帝国万歳」 *真珠湾攻撃―「朝日」・「いまや皇国の隆替を決するの秋、1億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日はきたのである」  戦争中のマスコミは、戦争の全期間、長期にわたって、膨大なウソの情報を流し、国民を誤導ました。戦争に国民を駆り立てる役割を積極的に果たしたのでした。  報道に携わる個々人の平和・民主主義への熱い思いと努力を感じつつ、一方では、自民党県議団などに、「気を使った」報道も散見する昨今です。

【06.9.24】
散髪とオールディズミュージック

月一回の散髪。私の好みを知って、店主がBGMのチャンネルを洋楽のオールディズミュージックにしてくれる。ポール・アンカ、プレスリー、ベンチャーズ、ビーチボーイズ、ボブ・ディラン、コニー・フランシス、ヘレン・シャピロ‥‥そしてビートルズ。気分は、少年期、20代にタイムスリップする。
 ポール・アンカの「ダイアナ」などを口ずさんでいた中学時代。受験時代は、「ラジオ・ジュークボックス」。NHKの野際陽子アナ(当時)の語りにぞっこんだった。ビートルズの曲がベストテンのなかに何曲もはいっていた時期。
 そんな私だったから、自然とロック、ポップ系を特に求め、それでもってエネルギーを注入し、また癒されてきた。
 月一度の散髪、つかの間の時間だが、髪も心もさっぱりして、憲法改悪、教育基本法改悪、庶民増税、医療改悪、障害者の負担増等々、悪政が猛威をふるうたたかいの現場に出動する。
【06.9.10】
 名前の由来

 1944年(昭和19年)9月―終戦の約1年前に生まれた私に、父は「徹(とおる)」という名前をつけました。戦争末期の時期、「大東亜戦争徹底抗戦」の「徹」からとったそうです。
 時代や世相の反映とはいえ、成人して、父から聞いたときは、「へーッ」と驚いたものでした。
 命名の由来とは正反対に、「戦争」「戦争の企て」に「徹底抗戦」の日本共産党に入党し、41年間、歩みを進めてきました。
 私が共産党に入ったことを知った父母は、驚き、嘆きましたが、やがては、私の生き方、日本共産党のことにも理解をしてくれ、共産党員になりました。
 誕生月・9月が近づくと、「名前の由来」と私の日本共産党員としての生き方を対比し、「クスッ」と含み笑いし、今はなき父母に思いを馳せるのです。

【06.8.27】
一銭五厘の命

 戦争の時代、赤紙(ハガキ)の代金は、一銭五厘。「これほどに命が軽く扱われた時代が、歴史としてはつい昨日、60年余り前に、この国にあったということを、若い人たちに伝えなければならない」−作家・「九条の会」呼びかけ人、澤地久枝さんの今年の「日本母親大会」での講演。澤地さんは、講演の最後に、「二度と命が軽く扱われる時代にしてはならない。ここから1ミリも引くわけにはいかない。1ミリでも前進しましょう」と訴えました。
 「正しい戦争だった」との戦争観にたつ靖国神社に参拝し、思想は戦前のような人物が、マスコミにもてはやされて時期総理の最有力候補といういまの時代の危うさへの澤地さんの思いが伝わってきます。
 原爆投下(6日、9日)、敗戦(15日)の日を迎える8月。「戦争と平和」について考える月です。
【06.8.13】
休養日

 議会内外での県政課題の取り組み、選挙準備、生活相談、市町村議員との連携、さまざまな運動など、「時間が足りない」というのが実感。6月議会での一般質問準備に入った5月中旬から、まとまって1日の休み(「休養日」)をとっていない。疲れもたまっている。
 「疲れがたまった」状態で、本当にいい仕事が出来るのか。周りの人に迷惑をかけていることはないのかーと考える。ハッとする。「これではいかんな」と。
 健康であってこそ、よりよい心身の状態でこそ、社会のために「役」に立つこともできる、いい仕事も出来る。至極あたり前のこと。
 日曜日の隙間の2〜3時間、妻と義母(85歳)を車に乗せて俵山へ。ひとり暮らしの義母が嬉しそう。「萌えの里」のベンチに座って、「『休養日』をちゃんととろう」と「決意」した次第。

【06.7.23】
公正な人事か?

 京都大学を卒業し、上級職で県庁に入職。以来30年懸命に職務に励んできたが、出先勤務が26年。車通勤で腰を痛め、通常なら通える職場なのに、運転できないので勤務地に部屋を借りて出勤している。昇格も見送られ続けている」との嘆願書が、県職員を夫に持つ女性から私に寄せられました。
一般質問準備で、人事課に照会すると「特別なケースではない」という回答でした。
 私は一般質問で、「大企業などの職場で、思想差別、女性差別が行われ、それらが最高裁をはじめ司法の場で厳しく裁かれている。こうした時代に公の職場である『熊本県』で差別の実態があるとすれば許しがたい。司法の場で裁かれ、その後改めるということではいけない」と指摘しました。
 熊本県の職員人事が、公正に行われているのか否か、行政改革、マスコミなどの「公務員」バッシングなどのなかで県政、県民のために一生懸命に励んでいる県職員の能力と努力が真に生かされているのかー県議会での私の「徹底して究明していくべき」課題のひとつになりました。

【06.7.9】
テニスで心身のリフレッシュ

 中学時代、軟式をすこしやっていた私が、この年齢になって硬式テニスにアタックしています。この半年は週1回、2時間程度のペースで汗をかいています。技術的にはなかなかレベルアップしませんが、心身のリフレッシュには効果抜群です。テニスの時間は、必死に球を追いかけます。体はくたくたという感じですが、「キツーイ」感じのくたくたではなく、すっきり感のあるくたくたです。議会での論戦、調査、政策立案、生活相談活動、川辺川ダム、水俣病、憲法、教育基本法などの運動でたまった緊張、ストレスが、吹っ飛びます。からだもかなり締まってきたようです。
 バックハンド、ファーストサーブがなかなかうまくいかないーこれがテニスの当面の課題ですが、じっくり、たのしみながらいきたいと思っています。
 山ほどの課題と活動でたまった疲れは、テニスでリフレッシュし、重要局面にさしかかっている川辺川ダム問題、水俣病問題、さらには障害者、介護問題、学校耐震化、青年雇用問題などに、全力でとりくみます。22日は一般質問です。
【06.6.11】
―あなたに見せたい絵がある― 戦没画学生「祈りの絵」展

県立美術館本館の戦没画学生慰霊美術館「無言館」所蔵の「祈りの絵」展(5月28日まで)は、胸が締め付けられるような数十分でした。静かに圧倒され、改めて「戦争」について考えさせられ、怒りがこみ上げてきました。
 会場に入って、本などで見ていた、私の郷土・御船町出身の佐久間修さんの「静子像」に出会いました。佐久間修さんの「静子像」「裸婦」は、無言館館主の窪島誠一郎さんの著「無言館への旅」によると、佐久間さんの妻・静子さんが、戦後ずっと、死没した夫と、それこそ一緒に暮らすように、自身の部屋に飾り、大事にしていたのを提供してもらったものとのことです。
 太平洋戦争のさなか、美術学校で絵を学び、あるいは教師として絵を教えていた20代、30代の画学生、教師が、戦地に行くまでの残された時間のなかで描いた油絵やデッサンなどの一つ一つが、私に声をかけ、訴えているようで、涙の連続でした。
 せめてこの絵具を使い切ってから征きたい/あと5分、あと10分、この絵を描かせてくれ……。
 お姉さん 生きて還ったら僕をパリに行かせてくれますか。 (1画学生の手記)

【06.5.14】
私の「意外な体験」

 40代後半から50代にかけての6年間、県南(八代・水俣芦北・人吉球磨)の共産党の責任者を務め、八代市に住みました。同じ事務所で仕事をしていたU君が結婚することになり、人前結婚式・祝う会を催すことになりました。「会」の実行委員会での「式のミュージックをうどうするか」との議論に口をはさんだことで、「選曲は、松岡さんに任せる」となってしまいました。当時の結婚式の定番は、安室奈美恵の「キャンユーセレブレイト」でしたが、U君は、そう若くもなかったので、「安室」ではないだろうと考え、「ダイアナ・ロス」と「ライオネル・リッチ」の「エンドレスラブ」をベースに、ダイアナロス、セリーヌデオンの曲などを組み合わせる構成にしました。
 任務を終えて熊本に帰る際の送別会で、「6年間で一番意外に思い、印象に残っているのは、結婚式の曲の選曲をしてもらった時」とのスピーチもあり、こそばゆかったものでした。
 県南での6年間は、活動の面でも、人間的にも、大事な勉強をさせてもらった期間でした。川辺川ダム水源の利水事業への異議申し立て、裁判がスタートしたのもこのころでした。そんな多忙な生活のなかでの「意外な」「あとにも先にもまたとない」体験でした。
【06.4.9】
2月議会閉会

 2月議会(通常3月議会)が閉会しました。「川辺川ダム県議会」ともいえる議会でした。代表質問、一般質問などで鮮明になったのは、自民党の「なにがなんでもダム」といったかたくな姿勢でした。水を長年待っている農民に、早く、安定した水を、より安く届けるという「利水事業」の原則からするならば、熊本県がまとめた案は、12月に農水省が示した案よりも「より安く」届けようとするものであり、本来なら歓迎すべきところを、手続きや言葉尻を捉えて、自民党は激しい知事攻撃を行いました。多くの県民が今回県が示した案を支持しており、自民党が、「ダムありき」路線を強行すれば、結果として大きな痛手を負うことになるでしょう。
 日本共産党県議会執務室に3年間勤めてもらった那須円君が、来年の一斉地方選挙の熊本市議選に重松孝文市議のバトンを受けるべく挑戦することになり執務室を退職いたしました。那須君のこれまでのがんばりに感謝し、健闘を期待したいと思います。<BR>
 那須君の後継に、板見奈津子さんにやってもらうことになり、2月議会をしっかり支えてもらいました。
【06.3.29】
「趣味」の話も時々は

 先日、第29回日本アカデミー賞の授賞式がありました。「ALWAYS3丁目の夕日」が、最優秀作品賞、同監督賞(山崎貴)・同主演男優賞(吉岡秀隆)などほとんどの賞を受賞しました(主演女優賞は「北の零年」の吉永小百合さん)。
 映画館を出るときの、ほのぼのとした、元気も出るようなー「ALWAYS…」は、そんな気持ちにさせる秀作でした。「ALWAYS…」は、殺伐とした―弱肉強食、格差拡大、耐震偽装、BSEなどーいまの世相だからこそヒットしたし、その勢いも受賞につながったのでは、と思います。
 最優秀作品賞・同監督賞・同主演男優賞・同主演女優賞といった主要部門の受賞が、私の予想(希望も含めて)どうりに的中したのも痛快でした。 欲を言えば、「パッチギ」(井筒和幸監督)にも、最優秀作品賞・同監督賞をあげたかったし、「NANA」の主演女優賞・中島美香もダークホースかと思っていたのですが)。
 郊外の超大型店のシネコン(複合映画館)が便利ですが、既存の商店街や映画館を脅かすところには余り気が進まず、自宅からも県庁からも遠い新市街に出かけます。「休む間もない」感じの毎日ですが、なんとか時間をつくって「白バラの祈り」(ナチスの圧制のなか反戦を訴えて処刑された学生たちを描いたもの)は、ぜひ観にいきたいと思っています。
【06.3.12】
ベトナム戦争に行った同級生

 高校卒業後アメリカに渡ったA君が40年ぶりにふるさとに帰ってきました。
クラスメイトが集まって歓迎会を開きました。童顔タイプのA君でしたが口ひげをはやしすっかり貫禄で、なつかしく、嬉しい再会でした。そんなA君が、アメリカに渡ってしばらくして、徴兵義務でベトナム戦争に行ったときのことを語ってくれました。童顔の少年とべトナム戦争―戦争をする国アメリカの非情な現実に息をのみました。
 自民党などが企てる憲法九条改悪は、アメリカの主導のもと、ベトナムやイラク
のような戦争に日本が参戦し、それにあった国内体制をつくろうとするー「戦争をする国」づくりです。
 やがて孫の2歳の誕生日。彼らに「戦争をする国」を引き継ぐわけにはいきません。
【06.2.26】
 41年目の2月

 誕生日は9月ですが、2月も私にとっては意味のある大事な月です。私が日本共産党に入党した月です。あっという間のような感じですが41年がたちました。
 学生ボランテア(セツルメント)活動、学生自治会再建運動、原子力潜水艦機構反対運動などに、それこそ青春の灯をたぎらせてとりくむ中で出会ったのが日本共産党でした。「生きていく意味」「生き甲斐ある人生」への出会いでした。
 共産党に入ったとき、2月の草花のように生きようと誓いました。寒さは厳しいが、2月の草花は土の中でしっかりと本当の春への準備をしている、自分もそんな生き方をしようと考えたからでした。2月が来ると共産党員としての暦が1年加わります。42年目に向かうスタートです。42年目の2月は、いっせい地方選・県議選の目前です
【06.2.12】

「ダムによらない利水・治水を考える県議の会」

 「ダムによらない利水・治水を考える県議の会」で、「川辺川ダム問題」についての県執行部との勉強会を持ちました。午後1時から5時まで。それでも時間足らずの感じでした。川辺川ダム建設は確かに国(国交省の事業ですが、県民の生命財産、環境、県財政に直接かかわる問題です。県の担当課によっては、主体的な取り組みには、(あえてどこどこの課とは書きませんが)格差を感じました。
 今日、午後1時半から「県民要求実現連絡会」の「県議会議員の海外視察の凍結を求める」要請に同行しました。「海外視察」でラスベガスに泊まったりーに、日ごろ「お金がない」「財政危機」ということで、要求実現もままならない、各団体のメンバー、憤懣やるかたないといった状況でした。

【06.1.26】
「青春の山脈(やまなみ)」

「青春の山脈(やまなみ)」(大江捷也・熊日出版)―新聞連載の時は飛び飛び読みだったので、本になったものを一気に読みました。病気がちの受験時代をへて大学にはいったものの、「萩原朔太郎」や「仲原中也」の世界にまだいた私にとって、「珈琲山脈」で出会った「うたごえ喫茶」は別世界でした。私の人生のターニングポイント(転換点)のひとつとなりました。数年後「山脈」の「うたごえ喫茶」がなくなったときはがっかりしたものでした。
 「青春の山脈」には、なつかしい人、場面が次々と出てきました。なくなった市民劇場(労演)の皆吉まっちゃン、オペラ「カルメン」、大学時代大変お世話になったA教授など。A先生には、在学期間が長かった大学の卒業数日前、「君は、学生としては運動ばかりして、いい学生とはいえなかったが、社会にでればユニークな役割を果たすでしょう」と「激励」していただきました。
 評論家の草柳大蔵氏と筆者(大江氏)の「本を読むこと」についてのやりとり―「人と触れ合うたびに多くのことを学ぶ。力不足では折角すばらしい話とであったのにその価値がわからない。触れ合ったことさえ気づかない。受け止められるだけの力を準備するためには読書が一番」(大江氏)―に感銘、「納得」。
 今年のモットーは、「よく学び、よく動く」です。
【06.1.22】       
「ダムの水はいらん」

 「川辺川ダムの水はいらん」をメインスローガンに、川辺川利水訴訟原告団・弁護団を中心に、「新年の集い」が毎年開かれてきました。年を追うごとにダム反対の漁民・市民も広く結集し、近年は「川辺川ダム反対」の広範な団体・個人の新しい年のスタートの場になってきました。私にとっては、この集いは、ダム反対の仲間と交流を深める大事な場になってきました。2部の交流会での焼酎を酌み交わしながらの歓談は格別です。  
9日は、今年も人吉青井神社集会場で開かれた集いには、昨年暮れに結成された「ダムによらない利水・治水を考える(熊本)県議の会」から、鎌田県議(県民クラブ)、福嶋県議(無所属)も参加し、それぞれ県政からの報告・挨拶を行いました。参加者からも「県議の会」への熱い期待が寄せられました。川辺川ダム中止の流れは、今年さらに加速し、大きな大きなうねりとなるでしょう

【06.1.10】
明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。ホームページ全体、そして日記もよりよい改善に努めたいと思います。
 今年も、元旦午前10時からの熊本市議団(益田牧子・重松孝文・上野美恵子)との藤崎宮、健軍神社前での初詣のひとたちへの新年の挨拶でスタートしました。
 今年は天気もさわやかな晴れで、人出も多く、激励も多くありました。JRの脱線事故や幼い児童殺害など暗いことが続いた昨年と違って、元旦の天気のような年に今年がなることを願うものです。
 政治では、小泉暴走内閣の憲法九条改悪、庶民増税、地方切捨ての政治に対抗して、平和とくらしをまもるために全力でがんばります。
 県政では、川辺川ダム、水俣病などの重要課題も山場を迎え、潮谷知事の「県民中心の県政」も正念場です。
 私の今年のモットーは、「よく学び、よく動く」です。

【06.1.5】



日本共産党熊本県議会議員 松岡徹
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